革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

やってみなければ、わからない。やらなければ新しい情報はでてこない。

やってみなければ、わからない。やらなければ新しい情報はでてこない。

やってみなければ、わからない。やらなければ、新しい情報は出てこない。

これが、現時点で、たどり着いた物事の本質である。物事というよりも、世の中のありようといってもいい。ものごとが、単純なら、やらなくても、結果がわかる。しかし、それも、初めからそうなっているわけではなく、経験を繰り返していくうち、そういう結論になったから、そうだといってもいい。何も、最初からわかっていることなどない。自然科学も、最初は何も分からなかった。推論や仮設に基づいて、実験したら、そうなった。だから、そういう因果関係が成り立つということになった。もちろん、それは、この世、我々、人間が生きているこの世の場において、成り立つということだけである。それが、すべてに対して成り立つかどうかはわからない。あくまでも、それを判断するのは人間だから、人間が存在しえない別次元では、それが成り立つかどうかは、再び、やってみなければ、わからないということになる。

ある意味、医学の進歩は、残酷物語でもある。まだ、切った貼ったならいい、しかし、薬理に関しては、そういうわけにはいかない。Bという症状がでた。それが、どんな病かわかればいい。それに対して有効な治療があればいい。それをやればいいだけである。それは言葉では簡単だが、それができるまでどれほどの経験値、臨床データが必要だったかである。最初は、わからない。開発された薬が効くかどうかわからない。最初は動物実験である。ある意味、残酷でもある。そして、人に投与される。これもやってみなければわからないからである。動物で効いても、実際に人に効くかは別問題だからである。当然に、固体差がある。副作用の差も、人それぞれである。膨大なデータの中で、修正が加えられ、その薬が最大限、有効になるほかの薬剤との組み合わせパターンも検証される。その過程の中で、犠牲になった人も多くいたはずである。しかし、その人たちの犠牲の上に、今の医療はなりたっている。それをやらなければ、新しい情報がでてこなかったからである。新しい情報がでたから、次の一手が決まるのである。そうして、世の中は進歩していくのである。

やってみなければ、わからない。では、だれがやるのか、他人ではなく、自分がやるのである。他力本願や他人がやってくれるだろうでは、結局、物事は動かない。頭では、こういう理屈がなりたつ。しかし、実際にやると、問題がでてくる。実際にやらなければ、気づかない問題があるのである。それが、ある意味、ノーハウとなる。人生、うまくいく人といかない人の差は、実は、ここにあるのである。

なぜ、職人は強いのか、それは、実際に自分で手をよごし、そこで生じる問題点にかつてぶちあたり、それを解消する点を習得したからである。飛行機のパイロットも同じである。自分で実際に操縦して、地上ではわからなかった問題点に遭遇し、それをその場で解決する方法を身につけたからである。それがノーハウになっていくのである。余談だが、なぜ、日本が、戦争に敗れたのか、もちろん、国力の差もあったろうが、それは、熟練した多くの戦闘機のパイロットを、作戦ミスで失ったからである。これも余談だが、なぜ、まだ、日本が先端分野で韓国や中国に勝てるのかは、特殊原料、分散工程の現場に、まだ、職人が現役で頑張っているからである。スイッチをいれたら、工程がきまり、ある意味、ロジック通り物事が決まる生産ラインなら、職人はいらない。装置メーカーがパッケージでうれば、どこでも同じものが作れるからである。それは、物事が複雑ではなく、単純に生産工程がきめられるからである。なぜ、半導体や液晶、電池の分野で日本が敗れたのか、そこに、職人のノーハウが介在する理由がなくなったからである。品質に対して、価格が下落するのは、そういう分野だからである。逆にいえば、セラコン、特殊原料、特殊基材、日本が世界のマーケットを支配している分野、すべて複雑系であり、特に量産時にいろいろな問題がでてきて、それを解決するのに、膨大な時間とコストをかけたところである。こういう分野は、簡単にはコピーはできない。簡単だとおもってコピーするが、どこか、やはり違うのである。性能がでないのである。実際に自分で考えてやったものと、人様のものをぱくってコピーしたものでは、どこか違うのである。

私は、今、あるものを開発して、制作している。どこから、頼まれたのでなく、自前の資金で、あるものを試作している。頭ではわかっていた。しかし、実際にトライすると、まったく予期していない問題が生じた。なるほど、これは使えない。使えないというよりも、ここが限界点だとわかる。そうすれば、それを回避する方法論が決定する。迷いは消えることになる。それは、やってみなければわからないことなのである。やらなければ、新しい情報はでてこないのである。たぶん、人にいっても、理解しない。なぜなら、そこに意識がいかないからである。そこの問題点にぶつかって、人は気づくのである。そこが、実際に自分で考えてやったものと、人様のものをぱくってコピーしたものとの差になるのである。なぜ、トヨタがHVの特許をOPENにするのか、それだけ、自信があるのである。車というものが、エンジン以外でもどれだけ複雑に相互依存しているか、わかっているからである。やれるものならやってみろ、できるのなら、やればいいと思っているからである。戦略物質も同じこと、韓国でできるのなら、やればいいのである。日本と同じように、汗をかいて、やっては失敗し、やっては失敗し、そこからノーハウを蓄積し、いいもの、日本製よりもはるかに安くていいものを作り上げればいいだけである。

人生もまた、おなじである。やってみなければわからない。どんな結果がでてくるかわからない。人生でうまくいっている人は、みんなやった人である。やったから、その結果が得られているのである。やらなければ、やらない現実が残るだけである。人生の黄昏を見ている私でも、ほかのことをやったらどうなるのか、そう思っている。ちがう人生が得られるかもしれないと思っている。

ぽっくりといった時が最後、最後までやってみなければわからない。実際そうおもっている。そうして、人生の最終章、最後の命題が残っている。死んだらどうなるのか、それも死んでみなければわからない。もしも、どこかで目が覚めたら、そこが天国や極楽や浄土であれば、いいと思っている。なにも、死に急ぐ必要はないはずである。やってみなければ、わからない。やらなければ、新しい情報は出てこない。最後の最後も結局、おなじことになるはずだと思っている。死ぬのは最後でいい。そこまで、やればいいと思っている。

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