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一生懸命、若い時は頑張った方がいい。

一生懸命、若い時は頑張った方がいい。

一生懸命、若い時は頑張った方がいい。

 人生は、だれでも、道なき道を歩むがごとく、すべてが初体験である。登山なら、一度上った山なら、次に何があるか予想できる。その山を登ったことがなくても、登山経験があれば、山というものがどんなものか想像できるから、全体の様子から、何がくるかある程度予想できる。しかし、人生にはそれがない。自分よりも先に生まれた人の話や人生訓を読んでも、それは、一般論であり、自分にどう適応できるかなど、自分ではわからないからである。ある程度、年齢を重ねて、後ろを振り向きだしたころ、つまり、人生の黄昏を感じ、これ以上、前にはいけないのだと悟ったとき、自分が歩んだ航跡を振り返ってみるものである。その時、人生とは、このようなものか、あの時、ああすればよかったと思えるのである。それまでは、人生とは、闇の中、道なき道を歩むがごとしなのである。

 自殺願望の人がいる。死にたいと思う人である。自分の存在を抹殺したいと思う人である。それは自分の肉体を抹殺するよりも、自分を自分として認識する自我を消したいとおもうからである。でも、そう思うなら、それはしょうがない。その思いは、どうすることもできない。現在進行形で、前が見えない状態で生きなければならない人にとって、どうしても、前に行けないと思い込んだら、それが、自分では超えられない巨大な鉄の垂直の壁と見えてしまうのだろう。そんなことは、程度の差はあっても、誰でもあること。自分だけがそうでなく、みんな同じようなことを考える。なぜなら、道なき道を歩むからである。道があれば、未来がわかる。しかし、道がなければ、誰でも不安になる。山道で、獣道に迷い込んだらどうなるか、引き返す道もわからない、自分がどこにいるのかもわからない。どうしたらいいかわからない、不安で不安でたまらない。そんな状況になれば、だれでもが、そうなる。人生とはそんなものなのである。なぜ、そういえるのか、人生の黄昏をみて、過去を振り返れば、自分もそうであるし、今現在、迷いの中で苦しんでいる人の姿が見えるからである。

 私は若い時、病に倒れた。何回も倒れた、ある意味、人生の競争から脱落した。それでも、生きなければならない。病気で倒れた時、同部屋にいた人は、ほとんど死んだからである。なんとか、這い上がってきた。もちろん、病で遅れ、精神的にも追い詰められた人間に、まともな就職など期待できない。まだ、日本は、中小零細企業が、活発だったから、大阪の中小企業のおやじに拾われたといってもいい。時代がよかった。もし、今なら、違う人生を歩んだかもしれない、たぶん、もっと、面白い人生を演出したかもしれないが、人生は一度きりなので、どうしようもない。人生とは人とのであいである。いい人とあうこともあればろくでもない人とあうこともある。人に助けられたときもあったし、人から裏切られたこともあった。結局、人を裏切る人、はしごを外す人は、心が弱い人である。人を裏切ってはいけないとおもっていても、自分の欲望に負けるのである。そして、その裏切りやだましにしても、自分に都合のいい論理をつくりあげ、自己弁護、自己肯定をするのである。そういうことをした人は、最後まで、そういう生き方しかできない。そのような人の人生の結末はいいはずがない。

 結局、倒れたら、起き上がることしかできない。そして、借金取り(銀行)がきたら、それを弁済できるように頑張らなければならない。とあるところから、はしごを外され、結構きつい借財を背負わされた。背負わしたのは企業、企業だから、そこの人々は何も感じない。連帯責任は無責任だからである。訴えたら勝てると行政の人からもいわれたが、それをねん出する金がなかった。結構、私にはいい知財があったが、それをかすめ取ろうとする悪徳企業もいた。それでも生きなければならない、古い技術を捨てて、新しいアイデアを生み出して、現状のあるべきものを利用して、最善の方法で生き延びるしかなかった。当然に、今でも、きちんと返済をしている。理不尽だと思うが、しょうがない。だから、前にいくしか方法がないのである。悪霊が、迫ってくる。種がつきたらそこが奈落である。だから、つぎからつぎへと新しいものを作り上げなければならないのである。それは何か、生きるためなのである。

 私は還暦を過ぎた。そして、数か月まえ、無理をしたのかどうかわからないが、同じ病にかかった。偶然にも発見が早かったので、5日で元にもどった。しかし、私の病には、ステロイドが必要だった。その薬はすぐにはきれない。飲んだら、時間をかけて減量していき、0にするしかない。慣れているといえば、慣れている。10年前も同じことをしたからである。しばらくはマスクはしなければならない。しかし、世の中、けったいなもの、ステロイドは、精神を高揚させる。ある意味、ステロイドハイ状態を作り上げる。だれも、考えつかないようなアイデアがどんどん浮かんだ。そして、今まで隠されていた闇の部分が全部、脳裏に浮かんできた。後、数か月すれば、ステロイドはとまる。そうなれば、私は凡人にもどると思っている。戻るまでが、最後の一仕事だと感じている。

 ステロイドを飲んで見えた物、それは、人間の欲望、人間の我執、ある意味、人間に潜む暗黒物質である。イノベーションを止めるもの、それも、既得権、くだらない人々の見栄とうぬぼれとプライド、何かをやるとき、人は純粋になる。そこに、自分のため、自分の欲望などない、純粋に世のため、人のため、未来のためという気持ちを持っている。その気持ちがなければ、かならず、邪な気持ち、邪念がはいって、ものの本質が見えなくなる。人は死ぬのである。未来永劫、自分の欲望など、存続しえない。

 自分が何のために生かされてきたのかを考えるとき、自分が今まで生きてきた経験を、何かの形で、これから生きる人、未来の人のために、役立ててもらいたいと思えてくる。それが利他である。それを失えば、意地汚い爺の我欲、まっくろに汚れ切った我欲の暗黒物質が自分を支配するだけである。それをもって死んだらどうなるか、きっと、宇宙のブラックホール(暗黒物質)へと持っていかれる。永遠の地獄がまっているようなイメージをもつ。人が最後にやるべきことは、それをすてて、自分ができうる範囲、許された状況の中で、最善の利他をつくすことだと感じる。自利は利他にはならないが、利他の中にも自分が含まれるから、利他は自利にもつながるのである。

 若い人は、道なき道を進んでいる状態、だから、前がみえない。死にたいと思う気持ちは当然、それだけ、純粋なこと。すばらしいことだと思う。しかし、人生にはいつも、その先がある。もっと、きついかもしれないし、もっとひどいことになるかもしれない。しかし、それも経験、それを消化していって、自分が確立される。ひどいことをされたら、大体おびえるもの、逆に、自分の殻に閉じこもろうとするもの。それもひとつの経験。

 視覚障害の人もいる。もともと、身体に障害を持った人もいる。若くして、病にかかり、生きたくても、生きれなかった人もいる。比較しろとはいわないし、人の哀しみや苦しいは人にとって絶対だから相対化できないもの。しかし、人は、時間軸に対して生きようとして、この世の生をうけたのは事実である。そうでないなら、自分という自我は存在していない。結局、一生懸命、がんばって、生きるしかないのである。還暦をすぎた爺がステロイドをのむのはつらい、しかし、しかたがない。生きるためである。そして、理不尽に背負わされた借財を返済するために、利益をうまなければならない。結局、本質的には、だれも助けてはくれない。倒れたら起き上がること、倒されたら、這い上がること、そして、前にむかって進むこと。どこかで命が尽きることだろう、しかたがない。それが人生というもの。みんなそうして生きてきた。人類が存続するかぎり、それは変わることのない真理のはず。若者は無理をすることはない。このIoTの時代、何でもできる。しかし、何でもできるというのは何もできないということにもつながる。ただ、今爺がいえることは何かといえば、「がんばりなさい」というだけである。

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