革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

京都散策、この世は乱れの放縦と乱れの制御の因果の中にある

京都散策、この世は乱れの放縦と乱れの制御の因果の中にある

 先週の土曜日、京都へいった。目的は、歩くことである。河原町でおりて、寺町通りをひたすら上った。御所をぬけて、下賀茂神社へいき、そこから、銀閣をぬけ、哲学の道へと入った。初めてこの道を通ったのが、確か、十代のころである。それから年に一度は来ている。恋人たちが、手をつないで散策している。わたしも若いころ、ひとりで通った時も、二人で通った時も、こどもと通ったときもあった。そして、人生の出口が見えだした今、一人で歩いている。人生は、ある意味、残酷である。この風景は、ほとんど変わらない。ずっと、同じである。しかし、それを見ている私は変化する。私が十代か二十代の時に、この道ですれ違った年配の人、今の私と同じぐらいの人は、たぶん、もうこの世にはいない、今、ここですれ違う若い人が、私と同じくらいの年齢になったとき、もう私は、この世にはいない。しかし、この哲学の道は、今とおなじような感じとして残るだろう。

 あの時、私は、何を見ていたのだろうか。今の自分を予見できたであろうか、あの時、感じていた人生の予感とは、これだったのだろうか、それとも、これから、さらに、変化があるのだろうか。人は、47歳ぐらいから、確実に老化していく。それまでは、各年代、確率的に均一に亡くなっている。しかし、47歳以降からは、老化による死去がふえてくる。そして、100歳になれば、ほとんどいない。110歳では、だれもいなくなる。50歳で亡くなる人もいるし、60歳で亡くなる人もいる。なくなってしまえれば、それでおしまい。だから、47歳以降、年齢というのは、あまり意味がなくなってくる。50歳の人でも、55歳でなくなるひともいれば、90歳まで生きる人がいる。その人たちでも、54歳というときがあった。しかし、ひとりは、一年後になくなり、もうひとりは35年後になくなるということになる。だから、すくなくとも、還暦をすぎれば、あとは、おまけということになる。そう、60歳以降は、人生とはこの世のおまけなのである。

 人生をみてくると、早くなくなる人と、長く生きる人の差というのがわかってくる。病気でも、早く亡くなる人と、長く生きられる人の差がわかってくる。この世は、確かに、二つの方向性がある。ひとつは、破壊・粉砕化への道、もうひとつは、組織化への道である。時間軸からみれば、時は、組織化から破壊・粉砕化への道へとながれているように見える。組織化が上流側で山の頂きなら、破壊・粉砕は、下流方向にある。人生とは、上流から下流への坂道を下っていくようなものである。イメージとしては、それは正しい。

 そして、人は、時として勘違いをするが、自己中心的な動き、我欲や我執をつよくして、我を張ることが、組織化の方向だと錯覚する。しかし、それは、破壊・粉砕方向へと落ちていくことになっている。いつも、「俺が、俺が」と自己主張することが、いいことだと、だれでも錯覚する。しかし、それは坂道を落ちていることだと、人は、わからない。それが、生きていることだと、勝手に思い込む。そういう我の強い人ほど、早く死ぬということになる。よく、若者の会話を耳にする。我の強い人ほど、「俺は、俺は」と自己主張する。それは、若さゆえに、できることで、それを、社会の中で、貫いたら、どうなるか、まちがいなく、社会から排除され、早く死ぬことになる。

 政治家の運勢も、俺が、俺が、と声高々に、さけび、我をだせば、必ずさがる。そして、支持率がさがる。しかし、人のいうことを聞いて、謙虚な姿勢と行動にでれば、自然と支持率があがる。あれだけ、高支持率だった、小池都知事も、排除の論理と己の我を出した途端、運勢は逆転してしまった。あの若さは、自我を出して、敗北した瞬間に消えてしまった。森友、加計の問題がでれば、安倍首相は、むきになって、我をだす。そうなれば、支持率は低下する。

 よく、教会の前に、マタイ福音書7章13節に、張ってある言葉がある。狭き門より入れである。「狭き門より入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです。」 この狭き門こそ、組織化プロセスへの道なのである。滅びに至る門とは、まさしく、破壊・粉砕プロセスへの道である。わたしは、キリスト教徒ではないが、この聖書の言葉は、当たっている。自己中心的に、我をはれば、それこそが、滅びへの道へ入っていくことになる。そして、自分の壁をつくり、我執をはれば、加速度的に、その破壊・粉砕の末路へと落ちていくことになる。それが、ある意味、死に至る道でもある。(聖書をみると、破壊・粉砕への道と組織化への道の対比が描かれている。聖書を要約すれば、組織化への道、それは狭い道かもしれないが、それに向かって歩みなさいということになる。)

 狭き門だから、楽ではないのである。それは、坂道をのぼるようなもの。己のためでなく、利他のために、命を使うことである。利他が自利とつながる。なぜなら、利他の中に自分も含まれるからである。人のために尽くすこと、未来のために尽くすことが、それが、自分を活かすことになる。活かせば、それだけ、生きるということになる。明日、死んでも悔いがないように、今を生きる。キリスト教でいう愛と正義、仏教でいう利他と慈悲、言葉は、ちがうが、同じことを言っている。

 我執をもつことは、それだけ、ストレスを受けやすい、壁をつくることであるから、それだけ、摩擦がおおい。ある意味、我執、自己の殻の強い人、あくが強い人ほど、つよく信仰をもつ傾向がある。なぜなら、信仰をもって、神や仏を意識しなければ、滅びゆく自分を制御できなくなるからである。信仰によって、崩れていく自分を常に支える必要があるからである。だから、トランプ大統領は、つよい信仰をもっているように見える。また、つよい信仰を持っている人ほど、芯のつよい人がおおい、ある意味、外側(他者)と内側(自分)との囲いを強くもつからである。外部のストレスをうけたくないからである。しかし、そういう人は、いったん、内部を乱してしまうと、感情を抑えることができない。信仰心の強い人ほど、怖い人はいないといわれるのはその為である。その感情をおさえるために、祈りが存在する。キリスト教でも仏教でも宗教の本質はそこにある。崩れかける自分を、祈ることで、制御をかけていることになる。これが、乱れの制御ということになる。

 乱れの放縦、これが、怒り、憎しみ、となり、他者を否定する根拠となる。神や仏に、自己をあずけ、神や仏とともにあろうとする、そうすることで、その怒りや憎しみを鎮静化できる。これが、乱れの制御の本質である。残念ながら、人間は、自我をもつ。それを否定することなど、できない。自我があるから、自分を他者と区別化し、思考し、生きることができるからである。自我がなければ、自分を認識できない。できなければ、死とおなじである。ただの有機的な物になってしまう。

 人間の心も、物のなりたちも、この宇宙の成り立ちも、基本は同じはずである。この宇宙が、150億年つづいているのも、一気に、崩壊せずに、なにかしらの秩序を形成し、それでも、ゆっくりと、崩壊の道を歩んでいるように見えるのも、これも、乱れの放縦と乱れの制御の因果の中の動きだと思われる。我々は、いつも物質の終わりをみている。しかし、この世はエネルギー保存の法則があるため、終わりが、また、何かの始まりみたいな感じがする。この宇宙のはじまりのビックバーンは、何かの終わりでおきたこと、世の中は、どうもフラクタル構造をもっているようだ。だから、人の死は、また、何かの始まりなのかもしれない。

 物に、エネルギー(力)をかける。普通は、力を放縦させる。そうなれば、乱れを放縦させることになる。ものは、バラバラに壊れる。それを微細化、ナノテクノロジーだと錯覚している人が多い。しかし、物の機能まで、構造体まで、破壊することになる。だから、進歩はどこかで、閉塞する。これから、50年先の未来、100年先の未来は、その破壊・粉砕の道の延長線上にはないはずである。ナノテクノロジーにも、乱れの制御が必要なのである。人間の心も、命も、この宇宙も、基本的に同じ因果で動いている。その因果を外せば、そこにあるのは、破滅と死だけである。

2017年12月27日 秋山なのの美粒ブログにUP

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional