革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

人生でうまくいく人といなない人の差とはなにか。若者に感じてもらいたい点。

人生でうまくいく人といなない人の差とはなにか。若者に感じてもらいたい点。

人生はあっけない。あっという間に、幕が下りる。そう書くと、若者は、人生を短絡的に考え、人によっては虚無的になる人もいる。しかし、そうではない、色々とトライして、人生の黄昏時に、人生とはこんなものかと、述懐できればいいだけである。

人も、企業も、国家も、民族も、ほとんど、自分たちの都合で生きる。それぞれの都合を合理的に解釈する。牽強付会とは言わないが、多かれ少なかれその要素が深い。合理的に見れば、何もわからない所、その因果が何であるのかわからない所に、我々は生まれた。ある意味、分からない所だから、無といっていい。無にいろいろと講釈をたれ、それなりの論理を立てても、基本的に無なのだから、何が真理なのか、誰もわからない。ただ、わからないなりにも、何かしらの感覚はわかるようになる。それが、共鳴であり、共振である。確かに、この世を支配する何かしらの因果は存在する。それは、この世を超えたものである。その因果によって、この宇宙は生まれ、なぜか知らないが、この世は生まれ、そして、自分が生まれた。そして、自分の子供がうまれた、自分の兄弟にも同じように、子供が生まれた。その子供が孫を生んだ。そして、親も親戚も死んであの世へといく。この先、人類がどうなるのかわからない。未来は、いずれ太陽が膨張し、地球を飲み込んで、この地球は終わりになる。その後どうなるか、だれもわからない。この宇宙の先になにがあるのかもだれも分からない。この世とは、誰も、永遠にわからない世界なのである。

しかし、それでも、この世で、私も含めてだれでもが、この世を超えたものからの因果をうけている。何かしらの相互作用を受けている。ロジックでは理解できないが、感覚的には漠然とわかっている。それがイメージである。色々なものが重なった状態での波動をうけている。それが、我々の心、感受性や感性と相互作用をいつも起こしている。しかし、それをロジックで、わかろうと、おもった瞬間に、それは壊れ、自分のエゴのフィルターを通したものに変質する。それが、自分の都合となる。自分の都合によって物事は、変質してしまうのである。自分の中で意識化した瞬間に、すべて自分に都合のいい情報に変質してしまうものなのである。

通常、人々の心と協和したものは残り、不協和するものは消滅する。だから、昔から、この世に伝承され残っているものは、この世を支配する因果に近いものだと、逆に推察される。もちろん、それが絶対に正しいかはどうかはわからないが、限りなく正しいように感じられる。だから、いまでも、受け継がれている聖書や仏典、神話の中に、神の因果に近い物が隠されている。物語という形にして、感覚的にわからせようとしている。しかし、それを読んでも、自分の都合のいい情報に変質させたら、もったいない話である。

余談だが、人類が結果的に、ここまで生きてこられたのは、悪人よりもいい人の方が多かったということになる。つまり、極悪人もいるが、それよりもちょっとだけ善人の方がこの世に多くいるということである。私がここに、生きていられるのは、極悪人もいたが、それよりは、善人の方がすこしだけ私の周りにいたということである。自分の都合で、自分の利を最優先にして私に近づいた人は、そこに自分にとって利がないと悟れば、自然と去っていった。これが世の中である。私が、人からも、とある企業からも裏切られて、どん底にいた時、それでも、私を支援してくれた人がいた。去る人もいれば、手を差し伸べてくれる人もいる。そこにあるのは、目に見えない何かが存在したからだろうと感じる。たぶん、支援してくれる人も、何かしらの可能性を感じて、ここで見捨てないほうがいいと、感じたから手を差し伸べたはずである。それは、理屈ではなく、感覚的なものであろう。利がない、意味がないと思った人は、当然に去っていく。

人生でうまくいく人といかない人の差とはなにか、特に、これは、若者に感じてもらいたい点である。理解などできないし、わかってくれとはいわない。ただ、感じてくれたらいいだけである。

この世はなにもない。無なのである。うまくいく人は、自分のエゴをいれない。自分が正しいと感じた方向へと向かうだけである。後で、理屈をつけるなら、それが神の啓示ということになるのかもしれない。しかし、現在進行形でいきる若者には不必要な言葉である。自分を超える何かがある。自分はその因果によっていかされている。そして、その流れに協和すれば、それと共鳴し協和すれば、うまくいくはずである。自分のエゴをだし、自分の都合やエゴや欲望で自分を乱し、その流れと不協和を起こせば、必ず、みだれて失脚し、だめになる。じゃ、どうすれば、その流れと共鳴、協和できるのか、それこそが、人類が何千年も昔から、感じてきた問題解決の命題なのである。それが、ある意味、宗教的な修行ということになる。神や仏に対する共鳴ということになる。しかし、それにまたこだわると、そのこだわりの中で乱れ、失脚する。つまり、無ということしかないのである。無の向こう側に神の因果ある。その因果を無心となって感受し、それを共鳴協和し、そこで、自分の行動を決定するということになる。

なぜ、私は、今、こんな事を書いているのか、私にとって、何の利もない。しかし、そうすることが、いいことだと、感じたから、これを書いている、だれか、迷っている人がいる。困っている人がいる。私にはその人の存在がわからない、しかし、何か、これを書かせるものが、ある。だれか、そうか、そういうことか、と感じてくれて、再度、人生を元気よく歩んでくれそ
うな気がしているからである。

私は、ほんとうに、ひどい目にあった。しかし、それがあったから、今の新しい美粒の技術、美流という感覚をもつようになった。その微細化の原理は、上記と全く同じである。乱すことなく、制御するということである。そして、その物質の分散状態と共鳴するように、装置のパラメーターを変えていく。なぜ、それが見えるのか、そのパラメーターが決まるのか、トライエンドエラーをしてくれば、何がいいのか、どのようにしたら、乱れずに共鳴するのかが見えるからである。それを感じるからである。私は、自分が作った装置が、ひとつの小宇宙だと思っている。エネルギーかけて、乱せばどうなるか、物質は確かに木っ端微塵になる。しかし、それはその物質が本来備わっている、言葉をかえれば、神の因果によって与えられているその物質の本来の機能まで、ぶち壊していることになる。従来の微細化する装置とは、すべて人の都合やエゴによって、導きだされたものである。私が自分のエゴをだして、物質をぶち壊そうとすればどうなるか、作用反作用で機械も壊れることになる。つまり、これは神の因果と不協和することになるということである。

人生でうまくいかない人の共通点は、どこかで、自分のエゴを出す人なのである。人がいいか悪いかは関係がない。人が悪くて、自分のエゴを強く出す人は、極悪人となって、どこかで消滅する。ほとんどの人はいい人なのである。しかし、どこかで自分のエゴを出して、自己中心的になろうとする、自分でものごとを仕切ろうとするのである。自分の都合を優先するのである。自分の色、自分の世界こそが、絶対と勝手に思うのである。どこかで、人と不協和を起こしているにも関わらず、それを見逃し、より大きな不協和を作り出してしまっているのである。戻れる範囲から戻れない範囲へ移行したとき、弾性域から塑性域へといってしまったら、だめになる。急性疾患ならいいが、慢性疾患になったら、治らないのと同じである。

私は、なぜ、ギターを弾くのか、自分で作った曲をギターを弾きながら、自分で歌おうとしている。なぜか、共鳴、協和の感触を感じるためなのである。ドラムのビートにあわせて、ギターをひく、リズムとメロディとの協和が、非常に心地よい。左手でコードをおさえ、右手でピックをもつ、そこに、意識はない。そのレベルまで到達した。つまり、自分のエゴはそこにはない、ただ、ドラムのビートに合わせるなり、自分が心地よいと感じるタイムに合わせるなりして、自然とひく。無の境地である。自分の意識がギターを弾くことに向けば、ピックがぎこちなくなる。どれだけ、無の境地でギターをひけるか、それを修行しているといった方がいいかもしれない。(それと、私は、どこかで、太極拳をやろうとしている。体の中を流れる気、それと神の因果の流れとの協和を、自分の体をとおして、感じたいと思いだしたからである。中国四千年の中の歴史の中で陶冶されてきた太極拳、体が膠着し、だめになるまえに、感受したいものである。)

迷える若者がいるなら、無の境地を感受したほうがいい。その感触を感じる一番の方法は、ただ、歩くことである。ひたすら歩くことである。四国八十八か所をお遍路となり、ひたすら歩くことが手っ取り早いかもしれない。若者なら、元気で歩ける状況なら、社会人になるまえに、歩き切ることである。変な仕来りにこだわる必要もない、真言の仕来りを意識する必要もない、ただ、歩いて、寺にいって、頭を下げたくなったら下げたらいいのである。最後には同行二人の精神になっているかもしれない。ならなくても関係ない。とにかく、歩くことである。歩いて、疲れたら、天を仰いで寝たらいい。そこに、青い空、白い雲があったらそれでいい、夜なら、星空をながめたらいい、大きなものの因果に自分は活かされていると感じられたらそれでいい。人生にはいいことだけではない、病に倒れることもある。人に裏切られたり、事業に失敗したりすることもある。受験に失敗したり、失恋することある。倒れたら、起き上がればいい。たぶん、人生の中でいい事は、5.5。4.5は悪い事。だから、再び、倒れるのは必定、そしたら、またおきあがったらいい。そうして、誰でもが人生の黄昏を迎える。それでいい、そうして、未来のために、自分ができることをして、何かをのこしてあげたらいい。できなくてもいい、そこまで生きてこられたら、かならず、そのことが、だれかと相互作用を起こしている。最後まで生き抜いたこと、それ自身が、すでに、この世に何かを残していることになる。それでいい。それだけでいいはずである。最後まで、生ききること、それだけで十分である。

2018年8月23日 秋山なおの美粒ブログにUP

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