革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

人生の下りエスカレーターを上りますか、下りますか

人生の下りエスカレーターを上りますか、下りますか

 人生、60年ちょっと、生きてくると、今まで見えなかった真理らしきものが見えてくる。もちろん、それは、私が感じられる範囲の中での考えで、当然に、それ以上のことは、わからないし、わかりえない。最近、私が、感じたことをちょっと下記に書き記す。それに照らして、人生を俯瞰し眺めれば、何か当たっているように思える。もちろん、これが絶対的ではないのだが、生きている生身としてみれば、一度の人生をうまく生きていく上のコツになるのではないかと思っている。私が若いときに、このようなことを言ってくれる人が身近にいたなら、違う人生を歩んでいたかもしれないが、それはしょうがない。だから、若い人にこれを読んでもらえたら、そうして、これからの長い人生をうまく生きていく上の参考にしてもらえれば、今まで生きてきたかいがあるというものだろう。

 なぜ、この世があるのか、なぜ、自分がうまれ、自分という意識が働き、自分が、このように考えているのか、その因果は、だれもわからない。わたしは、そこに、神や仏を持ち出すつもりはない。しかし、私が存在し、人も存在し、この世が現実に存在していることを、ありのまま、あるがまま、肯定するしかない。わたしは宗教家でもないし、特別な信仰を持っているわけでもない。だから、こうあるべきだなどというつもりはないし、その考えは、違うと否定するつもりもない。なにか、信仰をもつことで、心の安寧がえられ、命の終わりに対しての不安を消せることができるなら、そして、他人に不快な思いや迷惑をかけなければ、それはそれで素晴らしいことだと思っている。ただし、自分が素晴らしいとおもうことも、他人が同じように素晴らしいと思うとは限らない。自我が異なるからである。自分が見ている世界と人が見えている世界が、同じだと、証明する術がないからである。

 人間、自分の意識をもって、自分を他と区別する。それが、エゴである。それによって、ひとは、生きている。だから、自我を肯定するのは、正しいことである。どんな人も、ひとりひとりの自我は、平等であるべきであるし、そこで、差別化できる論理などこの世にはない。問題は、この世に、社会というものがあり、そのなかで、自分がどんな状況でうまれたのかである。裕福な家の生まれたのか、貧困の家にうまれたのか、平和の時代にうまれたのか、戦争で、人を殺しあうときにうまれたのか、それは自分では決められない、それは、たまたまのこと、そこに、何の因果も関与しない。そして、自分の意識がめばえ、自分を他と区別する能力が出た時、それが、どんな状況なのかを、人は、その時知るのである。すべて、たまたま、偶然の産物以外の何物でもない。

 人間、すべて、下りエスカレーターに立っているとおもったらいい。下記のイラストの美粒君のような感じである。明らかに、時間のながれは、下る方向である。そして、エスカレーターの動きも、下り方向である。だから、どんなに頑張っても、人間は永遠に上に歩き続けることはできないから、最後は、エスカレーターの速度よりも、遅くなり、人生の最後まで持っていかれる。それが死である。今のところ、永遠の命をもって生きているひとは、だれもいないから、これは真実として押さえなければいけない点である。

 なぜだかわからない。時間の流れの方向は、ばらばらになる方向のようである。何もしなければ、ものは、壊れていく。ばらばらになっていく。時間とともに、生ものは、そのまま放置していったら、腐って、ばらばらになる。しかし、生ものを、ラップにつつみ、冷蔵庫の中にしまえば、それなりに鮮度をたもち、永らえる。しかし、それも、永遠ではない。なにか、仕事をして、秩序化をほどこさなければ、くさってしまうのである。その力をもちいて、なにかしらの秩序ある状況をつくりだすことを、組織化プロセスと呼んでいる。逆の行為が、粉砕・破壊プロセスということになる。これは対極の事象である。だから、生きるということは、それも、一生懸命がんばって、生きるということは、組織化プロセスということになるし、自堕落に、快楽をむさぼり、麻薬、覚醒剤におぼれて、廃人になれば、それが、粉砕・破壊プロセスということになる。それは、下りエスカレーターを、駆け足で下り落ちることになる。エスカレーターの速度と自分の下る速度が足されれば、それだけ、早く、下へ落ちることになる。

 人間は、基本的にわがままで、自分の我欲を追求する。下りのエスカレーターにのっているからしょうがない。当然に、人は、外部からエネルギーを獲得して、それを燃焼して生きることになる。だれでもが、そうして生きている。問題は、エネルギーをえたら、力が生じる。強く生きようとすれば、それが外に現れる。基本は、人間は我欲があり、我執がある。わがままである。だから、力があれば、当然に、自分勝手に使おうとする。なぜなら、ばらばらに使う方が、楽だからである。滅茶苦茶にしたほうが、楽だからである。普通は、面倒なことよりも、安逸な方がいいからである。一生懸命はたらかないで、遊んで暮らして生きられるなら、ほとんどの人が、楽をえらぶ。その結果、メタボになって、成人病になって、早くくたばるということである。だから、だれでもが、乱れを放縦しようとする。考えなければ、乱雑に使うことになる。だんだんと、部屋が乱雑になり、ごみだらけになるのと同じである。整理整頓が一瞬のうちに、粉砕され、破壊されるのである。それが粉砕・破壊プロセスなのである。

 それと、真逆なのが、組織化プロセスである。整理整頓なのである。人によって、整理整頓のやり方はことなるが、エネルギー(力)を制御して、片付けようとする、制御がなければ、かならず、散らかすことになる。食べ物をたべる。コンビニで買ったものを食べる。部屋は散らかる。食欲の満足、乱れの放縦である。おなかがいっぱいになったら、だれも、動きたくない。動きたくないけど、つかれているけど、片付けなければならない。食べ残しがあれば、きれいに掃除しなければならない。食器もきれいに、ごみも分別しなければならない。面倒である。しかし、それが組織化プロセスなのである。面倒なのである。厄介なのである。簡単にできるのでなく、食器をあらう、入れ物を整理する。ごみを選別し、外にだす。ひとつひとつ、制御していくのである。飛行機はなぜ。飛ぶのか、エンジンからの力を、制御しているから、墜落しないで、とべるのである。そのまま、放縦していたら、飛行機は操縦不能になり、墜落してしまう。それと同じ理屈である。

 世の中は、単純。粉砕・破壊プロセスの方向へと進むか、組織化プロセスの方向へいくか、二者択一なのである。人生、迷いの連続である。至る所に、粉砕・破壊プロセスへと落ちていく罠がしかけられている。大体、おいしい話には、裏がある。他力本願で、棚から牡丹餅みないな話はない。わたしも、人に騙されたり、企業から裏切られてはしごを外されたりして、どん底に落とされた経験がある。一生一度とすれば、なんとか、首をくくらずに、生き延びれただけでも、幸運かと思われる。人生、そんなものである。人生、迷ったら、坂道の方へ進めである。がんばったら、自分を認めてくれる人とであう可能性があるからである。最後まであきらめずに、頑張ることである。疲れたら、休めばいい、泣きたくなったら、泣いたらいいのである。そうして、再び、立ち上がり、歩き出せばいいのである。人と比較しても全く意味がない。自分だけの一生一度きりの再現のない人生なのである。

 病気でも、粉砕・破壊プロセスの方向に、治療がむいたら、まず、命がない。組織化プロセスの方向に治療が向かないと、まず、助からない。感情が激情して、乱れたらどうなるか、まず、崩壊していく。そして、命の終焉と向かうはずである。

 人生、長くても、80年から90年、今なら、90年も生きられたら御の字である。85歳ぐらいまでいきられたら、幸せな人生ということになる。これから、ますます世知辛い世の中になる。年金もどうなることかわからない。

 なぜかわからないが、世の中には二つのプロセスがある。粉砕・破壊プロセスと組織化プロセスである。もし、まよったら、組織化プロセスを選んで頑張ることである。もし、部屋が乱雑になっていたら、片付けることである。人を好きになったら、愛しすぎぬほうがいいのである。執着がうまれ、心がみだれて、粉砕・破壊プロセスへと動くからである。

(2017年12月17日 秋山なおの美粒ブログにUP)

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