革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

導電性を向上することが、未来を救うことになる。リチウム二次蓄電池応用へ。

導電性を向上することが、未来を救うことになる。リチウム二次蓄電池応用へ。

導電性を向上することが、未来を救うことになる。リチウム二次蓄電池応用へ。

地球温暖化は、とまらない。世間では、化石燃料を止める、火力発電所をとめて、よりクリーンなエネルギーへの転換といっている。その方がいい。しかし、根本は、そこではない。どんなものでも、エネルギーを放出している。人も常に、36度という熱を外に放出している。人口が増加しているのだから、ある程度、地球の温度が上がるのはやむを得ない。それと、電気、電気といっているが、それも、熱を外に放出している。電気というよりも、電気が流れる線から、熱が放出しているといっていい。それが抵抗である。抵抗が大きければ、どうなるか、電熱線ヒーターとなる。町に貼りめぐらされた電柱、その上につまれたトランス、電気は電線の容量(長さと太さ)の抵抗で、電圧がおちる、だから、末端まで電気が届くように、電圧をあげる。抹消まで血液をおくるのに、血圧があがるのと同じである。当然に、電柱の上は、温度が上昇している。電圧をあげようと仕事をしているのだから当然である。いま、現在、地球に住むほとんどの人は、目に見えない電熱線の網目の中で生息していることになっている。地球温暖化も当たり前なのである。

現状、何が問題なのか、作った電気をためることができないのである。福島原発、あれだけのシステムがある。あの原子力は、いったい、なんの仕事をしているのかといえば、そのエネルギーで水蒸気をつくり、巨大なタービンを回して、電気を起こしているだけなのである。別に、電気をつくるのなら、原子力にする必要もない。ダムをつくるのに、金がかかり、それが環境破壊するというのなら、そうかもしれないが、実際にもっとも、クリーンなエネルギーは、水力発電のはずである。水の位置エネルギーを流速に変換して、それでタービンを回せばいい、山から流れる滝と同じである。しかし、それらも何が問題なのか、発電する技術はあっても、それにみあうだけの電気をためる技術が、コストバランスとあわないのである。

もはや、ハイブリット車の主流は、2モーターやE-powerになる。エンジンは、単なる発電機、それで巨大な効率のいい蓄電池を搭載して、モーターで車を動かす、システムである。結局、車の効率は、蓄電池の容量の大きさと、充電、放電のスピードと出し入れする量に依存する。現状では、リチウムイオンが黒鉛の層間にでは入りし、それで電気の受け渡しをしている。その量量がアップすれば、坂道でエンジンブレーキから、得られる回生エネルギー(電気)を蓄電池にためることができる。容量がすくないから、すぐに、充満して、本来ため込めるエネルギーを垂れ流ししていることになる。充電するにしても、Liと電子のやり取りをする黒鉛の層間の場へ電子がスムーズに流れなければ、そこに抵抗があれば、電熱線ヒーターのように、熱に逃げてしまう。効率がわるいことになる。(導電性向上というのは、ここを意味する)技術革新としては、それほど、本来は難しくはない。現状使われている黒鉛の層間に、Liイオンがより出入りしやすいようにすればいい、その黒鉛の層間の場から、電子がよりおおく、抵抗がなく、負荷側へながれればいい。あとは、黒鉛の層間の場の空間容量をあげればいい。それを、費用対効果にみあうだけのコストで作る技術があればいいということである。言葉で書けば、簡単なことである。

そう、理屈は簡単、しかし、なかなかできない。なぜなら、電池をつくるにしても、いろいろと混ぜなければならない。分散という技術が必要になる。いままでの技術は、固いものをどれだけ、つぶして細かくするかというもの、つまり、粉砕や破壊の分散哲学がほぼ99%支配していた。だから、同じ手法でつぶして、壊して、その機能まで壊してしまうのである。それでできないできないと言っている。また、研究会や学会を支配している偉い先生は、現場をしらない。生産技術という感覚がない。技術革新や市場の中で一番影響を受けるのは、それをつくるプロセスの簡易性と、そこから得られる費用対効果、なのである。いいものであっても、コストが高すぎたら、企業はどこもやらない。つくったら、大赤字なものは、だれもやらない。それは、市場から消えていくだけである。偉い先生の目的は、論文、評価、その学会での地位と名声をえること。だから、下流側での成果がでればそれでよし、上流側の原料、生産性から、下流の製品群とが断絶していて、大量につくれなくても、ビーカーワークで少量できれば、それでいい。スケールアップ、量産性のコストは、現場、企業が考えればいいと、心の底では思っているからである。もちろん、だれでも、世の中の役に立ちたいと願っている。しかし、あまりにも、現場は泥臭い、職人の世界に、偉い先生はプライドがあるから、なじめないのである。

リチウム二次電池改革が遂行することになれば、どういうことが必然的におきるのか、それが、原発破棄、ある意味、日本国憲法の理念である、平和への思いが実現することになる。小泉元首相や細川元首相の言っている以上のことが起きることになる。ナノカーボンで導電性を上げることは、解繊技術や剥離技術が必然となる。電池にしても、塗料にしても、すべてシート化、多層薄膜化が当たりまえとなる。日本で発明されたカーボンナノチューブ、粉砕、破壊の分散哲学で、世間は洗脳されているため、なかなかブレイクスルーできないが、いずれ、自己組織化、秩序化の分散哲学に変わってくる。そうなれば、電磁波シールドが簡単にできるというのがわかってくる。そうなると、すべてが、ステルス化(電波を遮断)ということになる。だれでもが、ステルスドローンをつくれたら、そして、そこに悪意のある人々がいて、ステルス化核弾頭または細菌兵器搭載ドローンをつくったら、この地球は終わりである。人類はその時点で死滅である。これこそ、原子爆弾よりもつよい、破壊への抑止力となるはずである。二次蓄電池化を進めるとこは、同時に、最高のステルスドローンをつくることと同じになるのである。人類は、破壊をとるか、共栄共存をとるか、破滅をとるか、平和をとるかの選択を選ぶことになる。

千葉県で一個の台風で、送電線がたおれ、停電が起きた。100Vがとまり、200Vもとまり、冷房ができないので、熱中症で死んだ人もいた。ポンプも動かないので、農作物はくさり、家畜も大打撃である。その時、太陽光パネル発電はどうしたというのだろうか、当然に、うごかない。起動電流がこなければ、スタートできない。電気がこなければ、なにもはじまらない。

目の前の荒れ狂う洪水、そこにタービンがあったら、電気はつくれるのである。人類は、エネルギー(風、水の流れ)から、モーターを利用して、電気エネルギーをつくることを学んだのである。単相100Vから3相200Vへインバーターがあれば、簡単なのである。一個の台風、そこからどれだけの電気がとれるのか、台風から押し寄せる荒波、それもエネルギーである。そこから、どれだけの電気エネルギーがとれるのだろうか、その技術はすでにあるのである。一番、問題なのは、その電気を蓄積する技術がお粗末なのである。電気を作る技術は、超一流の難関大学のドクターコースなみ、しかし、蓄積する技術は、保育園なみ、そう書くと、語弊がある。蓄積する技術はそれなりにある。それを生産技術に乗せて、やすくつくり、それで世の中を変えるイノベーション技術がお粗末だということである。

私が子供のころ、家にクーラーなどなかった。夏休みになれば、外にでて、蝉取りである。田舎にいけば、川にいき、水遊び、水に浸したタオルを首にまき、扇風機に顔を近づけ、スイカをパクパクと食べる。そこに、軒下の風鈴がなる。夕方になれば、涼しい風がふき、蚊取り線香をたいて、花火であそぶ。それが夏の風物詩であった。しかし、今は、毎日が、スマホから、熱中症で屋外の運動禁止のメッセージがとどく。クーラーがないと、夏は生きていけない時代となった。それで、電気がとまったらどうなるのか、老人と貧乏人は、もはや生きていけない。

もはや、日本が動かなければ、この国は、毎年威力をます台風の脅威から防御できなくなる。千葉県でおきたことが、10月、どこかで起きてもおかしくない。また、来年、千葉県で今回よりも強い風が吹くかもしれない。そのたびに、税金が使われていたら、この国は終わってしまう。日本は官僚律令国家、やらなければわからないものであれば、基本はやらない。実績がなければ、リスクが見えないからである。中国はやるか、中国も、基本は、日本でうまくいったものをかすめとって、漁夫の利を上げる国である。だから、できない。アメリカはどうかというと、アメリカは、やろうとする。しかし、基本的に生産技術がわからない国である。だから、自動車では、永遠にトヨタには勝てない。トヨタの生産技術に勝てる自動車メーカはアメリカにはいないからである。しかし、アメリカはプライドをかけてやるだろう。星条旗の下、キリスト教の倫理観のもと、地球を守るはずである。原子爆弾を最初に完成させたように、つくってしまうだろう。その下に、アップルやアマゾンやマイクロソフトやテスラ―等をこえる巨大企業が生まれているはずである。それこそが、マックスウエーバーがいっているアメリカのキリスト教的倫理感に基づく経済行為だからである。

ここ5年以内でこの地球の在りようが決まるだろう。なぜなら、日本には、生産技術を理解している役職定年をすぎた現場をしっている職人がまだ、いるからである。何十年という時間を現場でものといっしょに見てきた人たちがこの国にはいるのである。頭はぼけていて、腰も痛いが、現場でつちかった経験、その感性はいつでもよみがえるものである。その人たちを活かしきれなくて、この国の未来はないはずである。定年を過ぎて、ぼっと生きていていいんですか?、あと、10年もすれば、ぼけて、何もできなくなるはず。爺さんにできる最後の仕事は、これから生きる若者に未来と希望を与えることではないんですか?

確かに、偉そうなことを書いた。最後に、私がひらめいて、ここ数が月で作り上げた実証データをまとめたものを画像でアップする。これは事実であるが、これから、ここで書かれたことを実現するまでには、数年以上はかかるだろう。現場の力、生産技術、技術開発、用途開発、いろんな高いハードルが待ち受けている。できるかどうかは、やってみなければ、わからない。もちろん、やらなければ、なにも新しい情報などでてこない。ここで書かれたことが実現しなくても、別な方式で問題が解決されるかもしれない。世の中の動き、分散に関する世の中の動きをみていると、これを一石投じたくなった。私は電池に関しては、素人である。しかし、この分散哲学に対しては、世界トップだと自負している。なぜなら、誰一人、このような結果を示せた人がいないからである。

もはや、一極集中で電気をつくり、それを末端まで送り届ける。そんなやり方は、もう通用しない。一個の気まぐれな台風で、終わりなのである。そして、それが数か月おきにやってきたら、もうアウトである。地球温暖化が進めば、そうなる確率がアップするのである。とにかく電気をためることができれば、太陽光発電も、自己保持がはたらく、水路に発電機をつければ、電気はつくれる。灯油があれば、ジーゼル発電はできる。HV車やEV車があれば、電気は作れる。つくよりもためることが勝れば、生き延びることができるのである。

そんなことは、10年前からわかっていた。わかっていたのに、できなかった。なぜ、できなかったか、つくる根底、分散の根底の発想が違うからである。破壊や粉砕からは、何もうまれない。偉い先生も、ツールがわからない。破壊や粉砕の分散ツールで実験を開始しているから、そこがわからない。世の中は何かを示さなければなにも動かない。だから、あえて、このデータをブログにのせて、こんなわけのわからないブログを書いた。10人中8人は理解しない、しかし、2人がわかれば、それで、いずれ動き出す。世の中とはこんなもの、長いこといきてきて、それがわかり始めた。若い人は自分のエゴを優先する。自分が経験した以上の世界などわかるはずもない。それはそれでいい。だから、わかりえない。しかし、このままいったら、これから生まれてくる人の未来は苦しいものになる。還暦をすぎて、人生の黄昏を感じ、自分の命の有限性をみたなら、自分がいままで生きられた同等の命、それをこれから生まれてくる人たちの未来から奪ってはいけないはずである。

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