革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

新しい世界の夜明けと反エントロピーとは

新しい世界の夜明けと反エントロピーとは

新しいカタログの巻頭を抜粋。

新しい世界の夜明け


美粒は、もはや150Mpa以上の世界はもとめません。BERYU CHIBIと従来の高速ミキサーとの効率性の比較実験、(HP上で公開)、また、CHIBIとLOWを用いてのBERYU MINIの結果(HPで公開)をみれば、どれだけ、従来微粒化に、無駄なエネルギーを使っていたのかがわかります。それが製品にも影響し、いびつな結果を生んでいました。戦後から、受け継いできた分散プロセス、世界のどこでも後生大事に、秘伝のたれのように受け継いできました。効率の悪い仕事を、延々と続きて来たわけです。世界中、分散プロセス(装置)がすでに飽和しています。市場はイラついています。なぜなら、中枢となる分散プロセス(装置)の考え方や仕様が、同じだからです。美粒システムの原理は簡単です。美粒は、上流から下流に流れる流体に対して、反エントロピーを与えたのです。そこに、命ある秩序(コスモス)を美粒モジュールをつかって、与えたのです。それが、出てきた結果です。できなかったものが簡易にできたのです。美粒モジュールは、複雑なものでは、ありません。すべてが汎用の部品の組み合わせです。ただ、すこしだけ、頭(心)をつかって、デザインしただけです。


粉砕は、ものをこわす、破壊する考え方です。従来のビーズミルやジェット式の高圧乳化装置でビーズやノズルを破壊させながら、処理するものです。力の作用・反作用から、相手も壊れるから自分も壊れるという発想です。それは、ものを活かす発想、秩序(コスモス)を作り上げるという命の発想ではありません。力を乱さず美流として与えれば、ものは微粒の中で、新たな組織、美しい秩序をもったものに生まれ変わります。それが、美粒となります。1Mpa以下のBERYU CHIBI(メシア)でも、従来の高速ミキサーよりは、はるかに効率的です。分散の技術は既に、飽和しています。力の発想、破壊の発想からでは従来と同じものしかできません。壊す発想から活かす発想へ切り替えないと、世界は終わってしまいます。微粒(命あるコスモス)は、美流でつくられ美粒になる。それは今でも真理だと思っています。


反エントロピー、命ある秩序(コスモス)とは


残念ながら、命には、限界がある。我々も、どんなに頑張っても、どこかで、この命を閉じる時が来る。なぜか、それは、この世のロジックでは、永遠にわからない。しかし、我々は、この宇宙の中にいる、それは、時間の中で、膨張を続けているということに他ならない。そして、この世にあるエネルギーの総和は、一定、それが、ビックバーンで爆発したエネルギー量とおなじというもの。そのエネルギーも何かに使われる、しかし、もとにはもどらない。なぜか、わからない。だから、形あるものは、くずれていき、もとには還らない。大本は、いっしょ、そして、空間域は、どんどん膨張していく、エネルギー量は一緒、だから、エネルギー密度はどんどんおちていき、温度がさがっていく。それが、一つの運命といえば運命である。それが、エントロピー増大の法則の根拠となっている。

その中で、なぜ、命がうまれたのか、わからない。膨張しつづけ、ばらばらになろうとする方向にたいして、なぜ、秩序や組織体がうまれるのかわからない。この宇宙、銀河もまた、ひとつのコスモスをつくっている。バラバラになろうとする方向に対して、ひとつの秩序、ひとつのコスモスを形成しようとしている。それは、この宇宙に自律的にそうなるプログラムが内在しているのか、我々には、それが見えないのか、それもわからない。秩序や組織、ひとつの小宇宙(コスモス)を形成するには、それなりの力がいる。エントロピー増大(無秩序になろうとする因果)に対して、反エントロピー的な力がこの世にかかっているとしか思えない。現実に、宇宙があり、地球があり、その中で生命体がうまれ、今、自分がいて、これを書いている。なぜか、わからない。しかし、自分が存在していて、これを書いているのもまた、自分にとっては事実である。だから、それを認めざるをえない。反エントロピーとは、我々には永遠に見えない神の力なのか?


花火をあげる。もし、それを宇宙空間の中であげても、なにもうまれない。抵抗がないから、発射した時の速度をまもり、何かにぶつからない限り、永遠に動くだろう。それは、花火にはならない。花火として機能するには、地球の空気の重さが必要である。それがあるから、その抵抗(背圧)をうけて、減速し、爆発し、うまく花火となり、あのような花火の華がきらきらとゆらゆらと、夜空に咲くのである。それは一瞬の美しさ、ゆらぐ光の粒の美しさである。その仕組みが、花火を花火として活かす方法論である。その仕組みをうまくデザインできる人が、有能な花火職人である。経験と技量が問われる。その花火職人がやっていること、それは、反エントロピーを花火にあたえているということになる。


余談だが、私は、ずっと、分散プロセス、微粒化をやっている。もう30年以上も、あまりメジャーな仕事ではないが、そんなマイナーなことを、こつこつとやっている。世界的にみても、ほとんどいない。だから、ちょっとしたことでも、誰もやっていないから、特許がおりる。無学な私でも、偉そうなことがいえる。やっていないから、反証ができないからである。そんなことはどうでもいい、何が言いたいのかといえば、同じ力を処理物に加えても、美粒モジュールというものの組み合わせの差で、結果が変わってくるということなのである。乱さないように、うまく乱れを制御しても、その掛けた方やどのように掛けたかで、最適値が変わるのである。それは、一律ではない、物(処理物)の特性、どのようなものにしたいか(目的)に応じて、可変するのである。最適値は、それぞれによって変化するのである。


長良川では、鵜飼が有名である。鵜も、なにもしなければ、天然自在である。どの鵜も、鵜飼師の干渉などうけたくないはずである。しかし、その鵜飼師のさばきに応じて、がんばる鵜もいれば、がんばらない鵜もでてくる。これも同じことである。鵜飼師の愛情と鵜に対しての調和、鵜とともにあるというコスモス感、それがあるから、鵜はその秩序の中で、活かされて、鵜の特性を生かすことになる。最高の鵜飼師かどうかは、どれだけ、鵜に対して、気持ちよく秩序をもたせて、鵜の特性を生かしきるか、にかかっている。鷹もおなじである。そして、箱根駅伝でのマラソンの監督もまた同じである。選手の特性をどれだけ、引き出せるか、それは、どれだけ、その場に、命ある秩序を形成できるか、にかかっているはずである。選手に不安をあたえ、乱したら、アウト、一流選手でも、まともな成果などだせない。オリンピックで金メダルをとれるのは、選手の能力もさることながら、監督の力量も大事である。命ある秩序、コスモス感を、どれだけ、選手にあたえられるか、それによって、選手は無心で戦えるはずである。オリンピック選手になれば、個々の力量は、人間である以上、それほど変わらないはずである。


芸術作品もまたおなじ、どれだけ、反エントロピーを崩れかける命に、与えられるかにかかっている。人の心もまた同じ、だれでも、不安になる、イラつく。乱れる。精神的に崩れるのである。病は気からで、肉体もまた、時間とともに、崩れかかるのである。生きるというのは、その崩れかかるものに、秩序をあたえ、維持し、命(コスモス)を作り上げることなのである。私が、私が作り上げた装置の中で、力をかけて、ばらばらになるものに、美粒モジュールというものをつかって、そこに命(コスモス)をあたえると、乳化であれば、綺麗なシャープな粒度をもつ(秩序をもつ)乳化物にかわるのである。今、はやりのカーボンナノチューブもグラフェンも、解砕された新しい面に、新しい機能が付加してくるのである。乱すことなく、そこに、命をあたえれば、ものごとは、壊れることなく、本来あるべき特性をだしてくるのである。


いつも、崩れるのは、自分、壊れるのは自分なのである。ものごとは、自滅して崩壊していくのである。ものを、トンカチでたたけば、われて、壊れる。粉砕というのは、ものごとを壊すことである。作り上げることではない。ものごとは、作用と反作用があるから、物が壊れることは、装置も壊れるということである。今までの文明は、すべて、あるべきものを壊して、その壊れたものの一部を利用して成り立っている。すべて、破壊の文明である。これからは、活かす文明にならないと、地球は破壊する。地球の秩序がこわれ、自滅するからである。


私は、自分が作り上げた装置に反エントロピー、命ある秩序をあたえている。だから、おもしろい結果がでている。花火師は花火に反エントロピー、命ある秩序をあたえている。鵜飼師は、鵜飼に反エントロピー、命ある秩序をあたえている。芸術家は、その芸術作品に、反エントロピー、命ある秩序をあたえている。では、この宇宙、この世は、だれから、反エントロピー、命ある秩序をあたえられているのか。この世で生きるすべての生命体は、いったい、なにから、その反エントロピー、命ある秩序を与えられているのだろうか。答えは永遠になぞである。なぞだから、きっと、人は、それを神の力だと思うはずである。昔から、いろいろと人が感じた神とは、反エントロピー、命ある秩序(コスモス)をこの世にあたえる因果、力、有り様、だと、私は、自分が作り上げた装置で、美粒モジュールというもので、反エントロピー、命ある秩序(コスモス)を与えた結果、でてくる処理物をみていると、つくづく、そういうものだと思えてくる。


だから、その反エントロピー、命ある秩序(コスモス)それ自体が、神の愛と義だと、率直に思えてくる。もちろん、私は、神を信じろ、などとはいわない。反エントロピー、命ある秩序(コスモス)が、どうひとりひとりに関わっているかを述べているにすぎない。なぜか分からないが、世の中とは、そういうものなのである。あとは、個々の判断でしかない。ものごとは、自滅して壊れていく。それを食い止められるのも、自分でしかない。自分の命、破壊する方向から、活かす方向へと、進んだ方がいい。それが、神がこの世をつくりあげた意向でもあると感じている。だから、神にすがっても、なにもうまれない。自滅は自然の流れ、食い止められるのは、自分でしかない。反エントロピー、命ある秩序(コスモス)を与えられるのは、自分でしかない。祈っても、拝んでも、神は、沈黙するだけである。奇跡を生むためには、反エントロピー、命ある秩序(コスモス)を自分の中に呼び込むしかない。それが、神とともにあり、同行二人の本質でもある。


(2017年1月10日、秋山なおの美粒ブログにUP)

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