革新的な美粒の高圧乳化分散、グラフェン、カーボンナノチューブ、セルロースナノファイバー、挙動は同じです。

美流とは何か

美流とは何か

壊れる人、崩れる人、人生の相互作用。

私は、30年以上、ずっと、撹拌業界の世界にいる。とくに、ほとんど、日本ではやられない高圧乳化分散機の世界の中にいる。原理はいたって簡単、処理物に力をくわれ、圧縮し、その加えた圧力を、流速に変えて、何かと相互作用させ、微粒化したり、分布をそろえたりする。最近では、その力をうまく制御して、剥離、解繊させている。黒鉛をうまく剥離させれば、グラフェンとなる。合成でつくられるカーボンナノチューブも、一本、一本、ほぐしてやらなければ、チューブとして機能しない、何もしなければ、ナノでなく、カーボンミリチューブということになる。

長いこと、いろんなものに、トライしていくと、何が問題なのか、見えてくる。私の場合は、すべて、たまたまである。たまたま、英語ができたので、高圧乳化分散のアメリカのメーカーの人と知り合い、色々と教えてもらった。そして、イスラエル、ユダヤ人とも知り合い、そこでも、高圧の技術を教えてもらった。イスラエルには、3-4回、いったが、日本人の感覚から見たら、やはり、大変な国であり、そこには、なかなか日本人には理解しえない人間のエゴの闇が存在していた。まるで、宇宙のブラックホールを感じるような歴史の闇である。

彼らの思考の根底にあるのは、ものを、こわして、微細化する粉砕の思考法である。ものに、力を加える、それを流速に変換して、硬いものにぶつける。ガラスを割るのに、土でなく硬いコンクリートを選んで、そこにたたきつけて粉々にするという思考である。物事は作用と反作用であるから、物も壊れるが自分も壊れるというものである。

相手を傷つける。それが、同時に自分も傷つくことに、人は、気付かない。どんなものにも、作用反作用の相互作用が働く。頭でわかっているが、それが実感できない。ものの微粒化もおなじなのである。しかし、それを回避する方法論がわからない。私のような無学なものが、たまたま、実践を通して、気付いたもの、あたかも、禅の悟り、お遍路さんの同行二人への悟りへの道と同じ感覚に近い。それが、乱流から美流への道なのである。その哲学的な思考は、宗教的な悟りにちかい。

どうしても、微細化のプロセスは、欧米のような力には力という発想が主軸となる。それが、乱流、そして、粉砕の哲学となるのである。それが、この世の流れであるから、どうにもならない。敵がおそってきたら、敵を殲滅しなければならない。やられたら、やりかえす。対話よりも、力である。気に入らなければ、力でたたき壊すのである。それが、80%の世の中の思考法である。粉砕の哲学である。乱流の哲学でもある。日本にある微細化装置は、ほとんど、欧米からの輸入、言葉を換えれば、コピーである。その根底にある乱流や粉砕の哲学も、それを検証することなく、コピーされたのである。だれも、それに疑いをもたない、何か変だと思っても、それを変える事ができない。わかっちゃいるけど、やめられないのである。わかっちゃいるけど、暴言や暴行をはく、わかっちゃいるけど、不倫をする。わかっちゃいるけど、過食する。わかっちゃいるけど、いじめるのである。乱流よりも美流がいいと理解しても、人は、安易な方向へと流れるのである。なぜか、面倒くさいからである。慣性にさからって、がんばることは、基本的に辛いからである。過食するほうがダイエットするよりも楽だからである。

なにごとも、乱れれば、こわれ、よどめば腐る。これが、どんなものにも当てはまるのである。そこに、力を制御なく加えれば、乱れる。力を加え過ぎたら、よどみすぎる。抑圧と自由との関係なのである。自由すぎれば、乱れて、崩壊する。抑圧すぎれば、よどみ、腐ってくる。金持ちのぼんぼん大学生が、大学サークルといって、酒を飲み、女の子をつれこみ、暴行、強姦すれば、どうなるか、その行き過ぎた自由の代償は、人生の崩壊である。自己の内面を自分で抑圧して、自閉したらどうなるか、これも崩壊である。乱流―美流―腐流という感覚なのである。それをわけるのが、力の制御なのである。

はがれるもの、はがれやすくしたものは、割れやすいのである。ほぐれるもの、ほぐれやすくしたものは、壊れやすいのである。だから、乱流や破壊の哲学からは、ものを綺麗にはがす事やほぐす事ができないのである。割れながらはがれるのである。壊れながらほぐれるのである。だから、なかなか、剥離や解繊分散が、うまくいかないのである。グラフェンやCNTをつかった用途開発が、すすまないのである。また、乳化でも、粒子径がコントロールできないのである。その根底が、乱流の哲学、粉砕の哲学が、人間の行動思考規範に、刷り込まれているからなのである。わかっちゃいるけど、やめられない、一度、薬物に浸った人間は、そこから、なかなか抜け出せないのとおなじ、ニコチンになれた人は、なかなか禁煙ができないのと同じなのである。

壊れる人、崩れる人は、乱れているのである。情が乱れているのである。ある意味、エネルギー過多の状態である。それを外に発散できなければどうなるか、それがストレス状態なのである。それが身体に現れれば、病となり、心に現れれば、自閉になる。ストレスを発散させるには、歩くことである。盲目的に歩くことである。四国巡礼お遍路さん的に、歩くことである。疲れたら、休むことである。哀しくなったら、泣くことである。さびしくなったら、空を仰ぐことである。その自然、自然に変化するうつろいく時の美しさを感受することである。それが、美流である。たちどまり、その美流をスケッチすることである。

私には、時間がないから、そこまでできないが、四国へいくと、菅笠をかぶったお遍路さんが、もくもくと歩いているのを見かける。白衣をきて、金剛杖ついて、菅笠をかぶっていれば、だれでもが、お遍路さんとみてくれる。その恰好で巡礼地をさ迷っても、だれも怪訝な顔をしない。見栄も虚栄もすてることができる。その恰好なら、地べたにすわってもなにもいわない、哀しくなって、泣きながらあるいても、菅笠にかくれて、涙はみえない。移ろいゆく自然をスケッチしていたら、きっと、地元の人は、そっと、お茶でもどうですか、と優しい声をかけてくれかもしれない。大切なのは、人の情に触れることである。人の情と相互作用し、浄化されることである。

もし、人生に絶望したら、希望が見出せなくなったら、白衣をきて、金剛杖ついて、菅笠をかぶって四国巡礼、お遍路さんにでることである。そして、ひたすら、歩くことである。難しいことはいらない、般若心経を唱えることもあえていらない。ただ、もくもくと、歩くことである。ほんとに、疲れたら、地べたに座ればいいのである。そして、美しいと感じた所を、可能ならスケッチすること、それが無理なら、写真をとることである。そして、かならず、言葉を残すことである。その時の気持ちを素直に、言葉にしたためることである。人はなぜ巡礼にでるのか、見栄や虚飾や虚栄を捨てることができるからである。この宇宙と神と対峙することができるからである。それが、美流の本質でもある。

(2017年9月14日 秋山なおの美粒ブログUP)

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